昭和45年02月28日 朝の御理解



 御神訓 一、「神信心の無き人は親に孝の無きも人の道を知らぬも同じ事ぞや。」

 果たして神信心致して居ります私共が、親に孝行して居るも同じと云う様な信心して居るだろうか。果たして、人の道を知らぬも同じ事ぞやと仰るが、果たして人の道を行じて居るであろうか。いよいよ信心させて頂く者が猛反省させて頂かねばならんと思いますねえ。信心して居っても、親に孝も無きも同じ事と、または人の道を知らぬも同じ事と云う様な神信心をして居る者が、どの位あるか知れません。
 だから私達が、神信心をして居れば、もうこの御神訓に添うた生き方をして居る様な思い方をして居る。信心の無い者ばっかりは、と云った様な事を申しますが。ですからあれ達が信心なしょうるけれども、ね。又言われる様な事になって来るのじゃないでしょうか。成る程信心しよんなさるからと言われる様な、私は信心になった時始めて、親に孝行するも同じ事と云う様な信心が分かったと同時に。
 人の道を本当に行じて行って居る時であると云う様に思います。そこで私共の本当の信心姿勢と云うものが、間違いのない所に置かれておかんと、此の所が間違って来るのじゃないでしょうかねえ。いわゆる御利益、御利益と云っておる様な信心では、必ず、云うならあれ達が信心するけれどもとか、あの人は信心があってから、と云う様な事になるのじゃないでしょうかねえ。
 御利益を頂くと云う事が信心ではない、信心をするから御利益を頂くのである。根。おかげを頂いて居るからそれが信心じゃない、信心を頂いて居るから、おかげを頂くのである。ですから信心が先でしょうが。そう云う信心を此処では神信心と言うて居られると思いますね。いわゆる神信心をさせて頂くからおかげを頂く。神信心をさせて頂くから人に、成る程信心しなさればやっぱり違うと云う事になって来るのである。
 信心して居るから当然人の道を踏んで行くのも、当然の事として踏んで行くのである。ところが、御利益を頂くから、信心をすると言う事になって来ると、もう根本的にね違って来るんですよ。ね。おかげが先になる。おかげを頂くから信心をするから、おかげさえ頂いて居おれば、いわゆる人の道を歩こうともしない、親に孝の有るも孝行の有るも同じ事と云う信心にならな。
 親に孝の無きも同じ事、と言った様な事を繰り返して居るんですから。是では人があれ達が信心はするけれども、おかげ頂くから信心して居ると云うですねえ、それを信心と思っているから、何と申しますかね。変なエリート意識とでも申しましょうかねえ、信心の無い者んばっかりほ仕様がない、と言った様な思い方をする。実を言うたら、信心の無い者より程度が低いと云うかね、言うなら、下作な信心しよる。
 おかげ貰いたいばかりの信心ね。 ですから、此処で神信心とこう言うて居られる、その神信心が出来なければいけない、神信心をするからおかげを受けるのです。ね。ならその神信心と云うのは、親に孝のあるも同んじ信心、信心して居るから、人の道を踏みはずさない。だからそれに影の形の様におかげが伴うて来るのであります。ところが金光様の信心させて頂きますとね、おかげが在るから信心すると云う人がね。
 もう沢山有るのです。ね。又おかげを受けるんです。いわゆる金光大神御取次の道と言われる、その金光大神のお取次を下さる。そのやはりお徳とでも申しましょうか、その力に依っておかげを受けるんです。私は、此処の所を、ひとつ本当に分からしてもらわにゃならんと思う。神信心をするからおかげを受けるのである。おかげを受けるから信心をすると、もう根本的にそれが違って来るとです。
 それこそ成る程、金光様の信心ちや尊いものであろうと、例えば信心の無い人達にでも見られる、人の道を踏み外す事も無い様なおかげに。神信心をするのですから、神信心、神を信ずる心と書いてある。そこでですねえ、例えば合楽でこうして信心の稽古を頂いておる人達はですねえ、どう言う様な、云うならおかげを頂いておるか、どう云う様な信心をさせて頂いて居るか。
 昨夜の御理解にねえ、もう言う事は無い程しのおかげを受けて居る。合楽の信心をさせて頂いて居る人達は。もう言う事は無かちゅてね。神信心、神を信ずる心ね。是でもか、是でもかと信じん訳にはいかん程しのおかげを見せて頂いたり、聞かせて頂いたりして居ると云う事である。どうでしょうか、一言私に言わせて下さいと言う人が有るでしょうか。もう是はもう絶対、合楽はです。
 合楽の信心の稽古をして居る人達はです。もう言う事が無い程しのおかげを受けて居るです。この神信心と云う事に付いてなら。その昨夜の御祈念に御理解を頂こうと思うてこの教典を開かせてもらったんですよ、そしたら御理解第2節にね、先の世までも持って行かれる、子孫までも残るものは神徳じゃと云う、御理解第2節ですね、そこん所の一番しまいの所のね「みてるという事がない」と云う所がありますよね。
 御理解2節の一番最後の、此処の一番最しまいの所の「いう事がない」、ここを頂くんです。御理解2節のね、一番最後の所のです、満てると云う事がないと有ります、その其処の所のを一番最後の云うならそこに「 」かっこした様にです、云う事が無いとこと書きを頂くんです。ははあ今日は、御理解はもう言う事は、無いのだろうかと思うたら、さあ、その言う事がな無い云う事から。
 もう本当に成る程と云う、合楽の信心頂き、合楽で信心の稽古をしてある人達は、言う事が無い程しの、信心を頂かせてもらって居るなと云う事である。言う事は無い。ね。こんにちのいわゆる神信心の無き人はとこうおっしゃる、この神信心と云う事が神を信ずる心と云う事。合楽ではね、神様を信じん訳にはいかんと云う程しにですね。是でもか、是でもかと云う様うに、神様の1分1厘の間違いのない働きをね、見せて頂いたり聞かせて頂いたりして居るんですよ。合楽では。
 それに言う事があると言うなら、ちょっとおかしいです、ね。ですからね、私共が本当にそう云う、言うことの無い、云う事の無い程しのね、その信心を聞かせて頂いたり見せて頂いたりして居るのですから。そんならもうちっとましな信心が出来なければならんと云う事です。昨夜の御理解の内容にです、言う事は無いと云う事を頂いて、ね。背心の信心、ね。心に背く信心。
 例えば信心して居ってもです、よその神様が本当に分からせられて居らんならです。それは例えば成る程、人の道を踏み外しておる様な事であってもです。それは背心行為とは言われんのです。知らんのですから。そうでしょ。ところが合楽の方達はそれを、是でもか、是でもかと云う程しに、神様を分からせられて居る。神様を信じん訳にはいけん程しに教えられて居る。ね
 だのに一日なら一日を締め括ってみてからです。所謂自分の心に背いた一日。こんな事じゃいけんと分からせて頂きながら、こんな事をして居るという一日。所謂背心。ね。心に背いた日々。そこに又真剣なお詫びにも改まりにも必要になって来る訳です。ね、昨日一日の、例えば私の御用の上に表れて来ておる事をずうっと皆さんに聞いてもろうて、この様にも間違いの無いと云うそのお話をさせて頂いたんです。
 ま例えて、ひとつの例を申しますとね、昨日は、末永さんの所の末永さんのお婆ちゃんに当たる方のお立ち日で御座いました。ですから、福岡に妹が一人勤めに出て居られます。ですから、こちらにいわゆる海を隔てた壱岐の島と云う所が、自分の里ですから、勿論、教会の事ですから、まあ今日はお婆ちゃんの立ち日だと云う事で、お茶くらい沸いたでしょう。おそらく、甘い物が好きなら、甘いもの。
 辛い物が好きなら、甘な辛な物とり揃えられて、ま式年祭じゃないから、それでもご挨拶位あったでしょう。けれどもその是はやむにやまれんものですよねえ。いわゆるお婆ちゃんの立ち日だからね、ま四時の御祈念に、私四時のご祈念が有りますから昼のね午後の、だからその御祈念に併せて霊様にもご挨拶をして下さい。神様にもお礼を申し上げて下さいと云う事であった。
 そんならちゃんと玉串ども作っときなさいと言うて居りましたが、まぁせめてもと云う思いで昨日はお供え物を買いに行った久留米に。それで何時もここで買い付けのあの松石と云うお餅屋さんに、あの何時もお供えされる腰の高い饅頭がありましょ。あれはこれの松石の饅頭ですよね、だからあれを買おうと思うて松石に行った所が、あの饅頭は注文を受けて置かなければ作りませんちゅう事であった。
 けれども丁度幸い今日がね、昨日の事、今日が旗崎教会のご大祭なんです、だから旗崎の教会からお供えにこうして注文を受け取るけん、是をそんなら上げましょうちゅて、御三宝一台分けもろうた。なら又そして旗崎んとは後から作ろうと云う事じゃった。さあそれでその買わせて頂いたのは良かったけれども、帰りのバス代がなか。と云う程しにきちっとした事じゃった。
 さあ困ったなあ、四時の御祈念だと云うのに、もう四時の御祈念に合わしてして頂くのにそれこそ歩いてどん帰りよったっちゃ間に合わん訳ですよねえ、バス代がないけん。それでもまあ、とにかく西鉄の停留所まで行こうと思うてやらして頂いたら、そこにそこの田中さんがおられる。おかげ頂いたと思うて、訳を話してバス代を貸してもろうて、丁度4時に間に合う様に帰ってきたというのである。
 成る程、孫たちがね、今日は御霊様のお婆ちゃんの立ち日だからせめて、まあ甘な辛なと迄はいかんけれども、甘いものひとつでも、お茶のひとつでも頂いてもらおうと思うて、あれこれと心準備をしよる。それをね神様が喜んで下さる印が、まあ霊の喜びと云う依りも、そう云う心を神様が喜んで下さる印が、その様にして見えて来るでしょうが。まあ有り難いと云う心が、いやがうえにも募って来る訳です。
 私神様にその霊の立ち日である事をお礼を申し上げておりましたらね。プラチナ台と思うですね、プラチナの台に若いヒスイの小指の頭位の、大きなヒスイの入ったね指輪を頂くんです。まぁヒスイは今はダイヤよりまあ値打ちがあると云われる位に、今の現在宝石ではヒスイが一番て言われる位その。私は信心させて頂く者の宝は真心だと思うのです。ね、信心させて頂く者の宝は真心なんです。
 その末永さん達兄弟のその真心をです、神様がこう云う形で受けて下さり、またそう云う形で真の印を与えて下さったんだと思うんです。ね、それから霊様の前にやらせて頂いて、まあご挨拶させて頂きました。段々御祈念をさせて頂いておりましたら、私のいわゆる心眼に映ずる、ははぁこの方がお婆ちゃんの生前のお姿であろうかと思うような姿を拝ませて頂いて、そしてね、私の心の耳に響いて来る事です。
 「おかげで角が取れました」と仰る。私は始め、どう云う事か分からなかったんです。「おかげで角が取れましたち。先生のお取次によって、家の孫達がこうして、一生懸命信心の稽古をさせて頂いて居ります。福岡からいわゆる一番下の孫娘も一緒に来て、思いを込めてまあこうしてお供え物までもしてくれて、今日の立ち日のお礼を申し上げてくれて居ります」と云う事なんですけれども。
 「おかげで角が取れました」と云う事は、どう云う事だろうかと、私は思うたけれども、頂いた通りの事を、お祭りが済んでから、末永さんに話したんですよ。こう頂いたんですよね。て。そしたら先生、実は私も霊様を拝ませてもらいながら、しきりに思うた事はね、自分たちはお婆ちゃんを知らんのですよ。けれども家のお婆ちゃんと云う人は、非常に怒りっぽい人じゃったげな、と云う事であった。
 すぐどうかと言うとぷりっと腹かきなさるげな、と云うお婆ちゃんの話を聞いてる訳なんです。ね。腹が良かったに違いはない。プリプリ腹かく人は必ず腹の良か人。ですから例えて言うならば、壱岐の教会でも例えばなら、まぁ忘れて居られる様な事は無いだろうけれども、まぁ立ち日位の事は疎かに致しますわねえ。またはしてもんならこの人達兄弟が掛けた位いな思い込めてなかったでしょうね。
 だからやや角が出かかりよったんじゃないでしょうかねえ。イライラモヤモヤしよんなさった霊様が、けれども孫たちの真心に触れて、おかげで角が取れました、と。これは例えば末永さんの事。昨日はそう云う事がずうっとあったんです。もう是でもか是でもか、神様の働きの素晴らしさもう、恐れ入ってしまうちゅう事なんです。昨夜その御理解を頂き終わってから内田さんがです。
 もう親先生、この事は日々私共の実感なんですけれども、今日もそうでしたが、あの御理解を頂かせてもらいよって、いくら親先生が頭良かったっちゃ、こうい云う話しが親先生の頭から出るとは思われないと云う事を日々実感致します、と。そんなら、そこに神様の働きをご理解を通して感じている訳でしょうが、合楽の人達は。ね、そこに神様を見せて頂く。そこに神様を聞かせて頂く。いわゆる神信心。
 神を信ずる心はです、もう言う事は無い程しに頂いておると云う事なんです。そう云う意味で、合楽の方達はもう言う事がないて、そう云うまあ御理解だったんですよ。ね、言う事はない程しに、だからこの神信心と云う事においては頂いて居る訳であります。ですから神信心の無き人は親に孝無きも人の道を知らぬも同じ事ぞやと仰るが、果たして神信心致しております私達がです。
 親に孝のある様な生き方、又は人の道を踏み外す様な事の無い生き方が、果たして出来ておるかどうかと出来ていない、それが背心行為なのです心に背く自分の心に背く、神様の心に背く生き方。だから神様を此の様に間違いなく見せて頂いたり聞かせて頂いたりしていないならばです。それは信心しておってもだから背心にはならん知らんのだから。本当の神様を見せて下さったり、聞かせて頂いたりしていないのですから。
 それでも合楽の方たちは、言う事がない程しにおかげを頂いて居るのであるからです、私は出来んなら出来んで、もう少し真剣なお詫びの信心が出来なけりゃいけんのじゃないだろうかと思います。御理解五十節に「兎に角信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要ぢゃ。地が肥えて居れば肥をせいでもひとりでに物が出来るやうなものぞ」御理解下さってありますね。いわゆる信心をさせて頂く者は常に、ね。
 常平生に一つ地が肥える様な信心をしとかにゃいかんと云う事が分かります。地が肥えていかなければ、ひとりでに物が出来る様な、地が肥えていくと云う事は一段一段徳を受けていくと云う事なのです、ね。地が肥えると云う事は一段一段徳を積んでいくと云う事です。ですからひとりでに物が出来る様なものであろうぞ、と仰る様にひとりでに願わんでも、頼まんでも限りなく私共の上におかげが頂けて来るのです。
 皆さん、そう云うおかげを頂いて行く事の為にです。いわゆる神信心とこう仰る、ね。その神信心がなされなければいけません。御利益を頂くから信心しとると云うのは、だから神信心にはならんのです。信心をさせて頂いておるからおかげが付いてくると云う信心。そこん所の基本姿勢と云った様なものは、ね。本気でひとつスッキリ出来なければいけんのですよ。そんなら本気での神信心と云う事は地を肥やすと云う事。
 自分の心を肥やす事。云うなら一段一段徳を積んでいく喜び、楽しみと云うものがです、ね。感じられる信心をしなけりゃならんと云う事が解ります。それは合楽では言う事がない程しに、生きた神様の働きを真の当たりに見せて頂いておる、聞かせて頂いておる。云うなら朝晩のこの御理解が第一そうなのだ、ね。神の声と思わなければ居られない、ね。ですから私共がですねえ。所謂背心の一日であってはならない。
 神様の心に添う一日でありたいと願わせて頂く信心。そこから一段一段徳を積んで行くのであり地が肥えて行くのである。だからひとりでにものが出来る様なものであると云う事になるのです。いわゆる御利益は後から付いて来るもの。それを私共が頂き方を反対に頂いておる様な人達が多い所にです。私は金光さまの御信心が本当の意味でもっともっと発展する内容をもっておりながらです発展しないのじゃなかろうかと。
 私たちが此処の所を間違えて、自分たちも教会に参りよりゃ、もう此処で言う神信心が出来て居る様に思う。そして信心せん者ばっかりはと云う様な見方をする。だから信心のない人達から、あの人たちは信心はしよって、ばってと言う事に成ってくる。人の道を、踏み外したり、又は親に孝行するも同じ事と言う様な信心が出来ん所に、そう云う結果になって来ると私は思うのです。
 私は今日この御神訓を頂いてから、今日改めて分からせて頂く事は、教会に参りよりゃ誰だって神信心して居る様に思うて居ったけれど、そうじゃあない此処で言う神信心と云うのは、そうではない事が分かります。そこで神信心所謂神様を本当に信じれれる、為の信心が必要である。そう云う意味でならば、合楽ではそれこそ言う事が無い程しに神様の働き、言うなら、又は御霊様の生きた働きと云った様なものを。
 例えば例話に申しました末永さんのそれじゃないけれども、本当に愈々、真心こめて神様には仕えにゃならんのだなあと、又は、真心こめて、御霊様には奉仕させて頂くもので在ると言う事が解るから、そうしなければ居られんのである。昨日の霊様のお供えの中にですね、私が最近サイダーを全然頂かんのですよ。ですからミカンジュースを頂くんです。それで、その小遣いを貯めといては、この頃からそのミカンジュースを御三宝一台末永さん、霊様のお祭りのお供えと思うて用意してあったんです。
 所ががそのジュースは霊様の日にお供えするばってん、先生に奉仕をさせて頂くのだから、親先生に頂いて頂く為にミカンジュースがお供えしてあった訳です。私が霊様のご挨拶が終わってからちょっと見た所が、ジュースのお三宝が反対向こうを向いておる訳です。穴の方が見えようらん訳です気が付かなかったんです。お祭りが済んでしもうてから、あら、これは間違えとるたいと思わせて頂いたらね、「あれは霊へのお供えではなく親先生へのお供えだから」と神様から頂きました。
 いわゆる真心と云うもの、親先生に対するお礼とものを、そんな風にして、渕上先生がお供えしている。はぁなら私は気が付かん事でしたちゅう事でしたけれども、いわゆる神様のご演出と云うものは、その様に素晴らしい。もう間違いなしにジュースだけは親先生に後からお礼の印に頂いて頂きたいと思うて、ジュースのお供えをしたと。霊さんにじゃない。だからこっちを向いとる訳。
 と云う様うにね、真心と云うものが通じるもの、通うものと云う事が分かる程しの、日々、お互い教導を受けて居ると云う事なんです。ですから、そこが分かって、それが行じられて初めて、今日の神信心といえる訳です。ですから一段一段、徳を積んで行かねばならぬ。所謂自分の信心の心云うものを肥やして行かねばならないと云う事がです。親に孝をするも同じ事と云う様な信心が出来る訳です。
 人の道を知らぬもと同じ事と仰る、人の道を踏み外す事のない。所謂踏み外しておったんじゃ馬鹿らしいと云う事になる。神信心が出来たら神様を信じて疑わない日々が出来たら、所謂心に背く背心の日々と行った様な事ではなくなって来る訳なんです。よしま出来たそれが本当に今日はお心に添わない生き方であったと早く気が付かせて頂くし、同時にそこん所が真剣なお詫びの印と云うか、お詫びの信心が出来る訳です。
 どうぞひとつ今日私が申します、この御神訓の中からですねえ。成る程神信心をしなければいけないと云う事を、心に決めて下さい。御利益を頂くから信心しておると云うのは神信心になりません。成る程それでも御利益はあります御利益を頂く。一生懸命お参りをして来る。いや一生懸命参らんでも御利益はあります、お取次の徳によって。ね。けれどもそれではただ今、私が申します様な徳を積んで行く信心にはならんのですから、ね。神信心を先にしなければならない。
 御利益を頂くからの信心ではなくて、神様を愈々信じて疑わない心が強うなって行く信心。いわゆる神信心をして行く所からね。自ずと心が肥えて行く事でしょう。自ずと一段一段徳を積んで行く事が出来るでしょう。そこにひとりでに肥をせいでもものが出来る様なものであろうぞと仰る様なおかげが後から付いて来る。しかもそのおかげと云うのは限りがない。ね。しかもそれはひとりでに出来て来るのである。素晴らしいでしょうが。そう云うおかげを頂いていかにゃいかんと思うのです。
   どうぞ。